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2025

かつて天才だった俺たちへ

嶋元からパスを受けた谷口です。私は関西人がせっかちだということは固定観念だと思うのですが、どうなのでしょうか?


東大の合格発表が終わり、もうすぐ後輩が入ってくることに驚いています。私は諸事情で久しぶりに後輩をもつことになるので、楽しみでもあり不安でもあります。普通、こういう場合は時の流れの速さに驚くべきなのでしょうが、私はようやくかといった気持ちです。周りの人はよく「もう1年経つのか〜まだ半年ぐらいの気持ちだよ〜」とか毎年のように言いますが、そろそろ時が経つのは早いことを自覚した方がいいのではないのでしょうか?


ところで、こういうときに拙文がどうたらとか書いた方がいいのでしょうか?少なくとも、こんな難しそうな単語が出てくる人は、へりくだらずに堂々と書いていいんじゃないか?と思ってしまいます…


ここまで回ってくると1人ぐらい奇抜なブログを書くべきなのかも知れませんが、怒られるのが怖いので、私以降の人にその役目を任せたいと思います。…とは言いつつも、差別化を図った方がいいと感じたので、他の1年生のブログの共通の話題であったゴルフ、ゴルフ部以外のことで書こうと思います。


能力は才能と努力で決まるらしいです。それを聞いて私が思ったことは「自分の才能がある分野しか努力したくないな〜」でした。なにか1つのことだけがずば抜けて優れている人は、漫画に出てくる天才キャラみたいな感じで憧れました。逆に、なんでも卒なくできる人は、RPGゲームの物理攻撃、攻撃魔法、回復魔法なんでも出来るが、全て微妙で弱い魔法剣士キャラみたいな感じで嫌いでした。そこで、私は自分に才能がないと思ったものは努力しなくなりました。分業化が進む社会において、なにかに特化することは理に適っていると考えました。しかし、ある分野だけに秀でているだけでは駄目なのではないかと考え始めました。理由は大きく分けて2つあります。一つ目は専門性が高まる世の中においても、ある程度の幅広い能力が必要だということです。例えば、数学者になるには、当然数学力は必要ですが、論文を作成できる英語力、他の研究者と議論するためのコミュニケーション能力なども必要です。第一、社会の中で生きていく上で家庭を持つことなどを考えると、到底数学力だけでは生きていけません。二つ目は一定量の努力をしないと才能があるか分からないということです。例えば、私は暗記が苦手だと思っているのですが、それは小学校の漢字テストとかで努力不足から来る失敗体験で暗記の才能がないと思い込んでいるだけで、本当は暗記の天才だったかも。苦手だとか、怖いとか、気づかなければ、俺だってボールと友達になれた。頭が悪いとか、思わなけりゃ、きっとフェルマーの定理すら解けた。まとめると、才能を言い訳にせず、何事にも精進してまいります。


余談ですが、努力できる遺伝子というものがあるそうです。ミシガン州立大学とテキサス大学が行った共同実験で、一卵性双生児850組を片方は裕福な家庭、もう片方は問題のある家庭に分けて楽器の練習をさせたところ、実力差は出なかったというもの。このことから、努力できるかは環境は関係なく、生まれた時点で決まっているということです。ラプラスの悪魔のような感覚を味わいます。ラプラスの悪魔とは全ての原子の位置と運動量がわかれば、未来を完璧に予測出来るというものです。以上を考えると、「自分が努力出来ないのは遺伝子のせいだ」とか「未来はもう決まっているから今何やっても変わらない」などと無気力に陥ってしまいそうです。ここはポジティブに「遺伝子が無いから努力が出来ない」ではなく、「努力が出来ているということは努力の遺伝子がある、自分は努力の天才だ」ぐらいに捉えたいですね。ちなみに、ラプラスの悪魔は量子力学の登場により、否定されたらしいです。そもそも、何をするにも努力はしなければならない訳で、与えられた努力の遺伝子を受け入れた上でベストを尽くすべきです。そう考えると、努力の遺伝子の有無について考えるのはナンセンスなのかも知れませんね。


そろそろ、並木にパスを渡したいと思います。スコアが私と割と近く、一方的にライバル視してる並木。周りのことをよく見る並木。ドライバーがよく飛ぶ並木。サングラスが似合う並木。ずっと笑ってくれる並木。運転姿がカッコ良い並木。優しい並木。並木。嗚呼、並木。


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